2012/09/25
初!
!!!
身内が、ウィーンに来てくれました(笑)
姉と、姉の旦那さんである大輔さんが、
一年に一度の夫婦での旅行で、ウィーンに来てくれたのです。
僕がいなければ、たぶんウィーンを選ばなかったと言っていたくらいですから、
思っていたほど、オーストリアという国は、誰にでも馴染みのある国とは言えないのですね。
何を食べたいか尋ねたところ、
「ウィーン料理以外。」
という、まさかの応えが返ってきました。(笑)
なんでも、もう何食かウィーン料理を食べてしまった様子で、
しかも主要なウィーン料理は網羅していたので、
僕も安心して、他のお店を紹介できました。
中華だったらあそこ。
イタリアンだったらあそこ。
コリアンだったらあそこ。
ベトナムだったらあそこ。
そんな中、今日はタイ料理をチョイスしたのでした。
お腹いっぱいになったあとのお皿で、すみません。(笑)
姉がウィーンにいるのが、若干不思議な感じもしましたが、
なにより、勉強を頑張っているウィーンで家族と会えたことが、本当に嬉しかったです。
やはり、話していて何の気遣いもなく、自分の最も裸な状態で居られるのは、
どんなに親しい人と比べても、家族は特別なものです。
大輔さんにも、いつも応援をしてもらって、
もう一人の姉とその旦那さんにもいつも応援してもらって、
最近誕生した、姪っ子や甥っ子には癒され、
(両親については、特に言うまでもなく支えてもらって、)
まだ自立もしてないし、結婚もしていない自分にとって、
これだけ沢山の家族に囲まれていられることが、本当に精神的支えになっています。
留学生活二年目も、頑張ろう!
っと、改めて思えた夜になったのでした。
さて、姉夫妻はウィーンの次はギリシャへ行ってしまいますが、
そういえば僕も、昨日までフランスに旅していたのです。
これがまた、トラブルに見舞われた、なかなか大変な旅行となったのですが、
よく知らなかったフランスという国に触れて、結果的によかったと思える旅となりました。
大概ヨーロッパにも慣れてきた自分もいますが、
それでも異国を知れることは、やはり楽しいものです。
追々、フランスのことも、頭の整理がついたら、綴りたいなと考えています。
2012/09/12
縁。
先日、シューベルトの縁の地探索をしました。
せっかくウィーンに居るうちに、
勿論、今や隣の県のようになったヨーロッパの国々もまわりたいですが、
もはやご近所さんであるウィーン市内をまわろう計画が、今少しずつ進行しております。
時間が限られていたので、少しだけの散策でしたが、
生家からのスタートです。(上写真)
最初の部屋。
壁にはシューベルトや、彼と関わりの深かった人物の肖像画などが掛けられており、
中央では彼の作品を聴くことができるコーナーが設置されていました。
シューベルトが実際に使っていたメガネ。割れていましたが、残っているんですね。
サイズから想像するに、顔が小さかったようです。
次の部屋にはピアノもありました。
ハンガリーでリストの家に行った時は、あまりの数のピアノに驚きましたが、
貧乏なシューベルトはやはり1台か・・・。
でも、僕の感覚からすると、それが普通なのですがね。(苦笑)
「未完成交響曲」という古い映画で出てくるのですが、
シューベルトは愛用のギターを質屋に入れて手放してしまう、という話があります。
実際にどの程度ギターに愛着があったかはわかりませんが、
ギターの入った室内楽曲があることはあるみたいです。
アパートの中庭?のようなスペース。
1階左側(日本で言う2階)がシューベルトの部屋で、
その下はコンサートホールになっていて、今でも使われているそうです。
この写真では見えませんが、手前右側には井戸があり、奥は小さな花畑が広がっています。
・・・と、親切な見張りのおじいちゃんが教えてくれました。
さて、お次はリヒテンタール教会です。
シューベルトが洗礼を受け、子供の頃によく通った教会。
少々辺鄙な位置にあるせいか、観光客で賑わっているわけでもなく、
中は常時開放されているにも関わらず、ご覧の静けさ・・・。
が、しかし、これがまた何とも言えない美しさの壁面や天井に、
これだけ落ち着きのある空間がこんなところにあったのか!という驚き。
ここでシューベルトは幼い頃に洗礼を受けたのかと思うと、
しばし彼の作品を思い起こしながら、ぼーっと座り込んでしまいました。
そして、場所を少し変えて、最期の家へ。
シューベルトが親友ショーバーへ宛てた手紙。
もう寝たきりの彼は、ベッドとソファの往復だけの生活をしていたので、
親友に、自分の病気の深刻さと、何か読む本を届けてくれないかという内容が記されています。
この頃、伝染病にかかっていた彼を、最愛の兄がひきとっていたのですが、
皮肉なことに、この最悪な時期に、僕にとって大切なピアノ曲が書かれていたのです。
外にもまともに出られない、奥まった小さな部屋に閉じこもり、
何か食べてもすぐに吐き出してしまうくらいの苦しみの中、生まれた作品。
でも、彼は貧乏で病気にもなってしまい、
生前には大成功と呼べることは成し遂げられなかった(すぐには認めてもらえなかった)わけではありますが、
親友や、最愛の兄など、人には恵まれていました。
そしてこれが、葬儀が行われた聖ヨーゼフ教会。
最期の家から、すぐ近くにありました。
リヒテンタール教会とは違って、質素な内装。
1828年11月19日に永眠、翌々日、ここで葬儀が行われました。
この教会は、常時開放しておらず、柵越しにこの写真を撮ることしかできませんでした。
と、縁の地探索はここまで。
少しだけでしたが、自分にとって大切な作曲家の見ていたもの、触れていたものに、
自分も接することができて、嬉しかったです。
次は、ベートーヴェンだな。
ドイツ生まれの彼ですが、実はウィーン滞在がほとんどの生涯。
こちらも、今から楽しみです!
2012/09/08
講習会。
今年の夏が、終わりました。
怒涛の日本での本番を終え、
ウィーンでの講習会も昨日終わり、あとは冬ゼメスターの開始を待つのみです。
講習会では、相変わらずの充実のレッスン。
普段は90分のレッスンなのですが、講習会の60分がとても短く感じました。
レッスンとは別に、コンクールと受賞者コンサートに出演させていただき、
8月からの疲労も重なり、最後は体力勝負でした。
改めて、やっぱり音楽家も体育会系だなあと思います。(笑)
コンクールって、コンサートと比べて、
どうしてこうも、自分にプレッシャーを与えてしまうのだろうかと、反省しました。
明らかに、緊張の種類が違うので、自分でも嫌になります。
人前で演奏するという行為は全く変わらないし、
特別視することでプラスの方向にいくわけでもないので、
僕の場合は、邪魔な感情です。
このコンクール後の冴えない顔をご覧いただければ、おわかりでしょう(笑)
コンクールの後、師匠の最後のレッスン、そして受賞者コンサートという流れでしたが、
レッスンが白熱したことは、言うまでもありません。
音楽的には、ほとんどプランが固まっていた曲目ですが、
細部まで突っ込んだ指摘が続き、何度も初めから弾き直し。
師匠の、非常に熱のこもったレッスンがおこなわれました。
終いには、今の自分には、とても痛い言葉もいただいてしまいました。
「できるのだから、あとは実現するだけ。」
そう、自分でもわかっていました。
師匠に言われることは、確かにレッスンで反応することはできるのですが、
それを、自分のものになかなかできないのです。
こればかりは、練習の時の、繰り返しの回数なのでしょうかね。
そのへんを怠っているわけではないのですが、
それでも、簡単には実現できないのが現状です。
「コンクールより上手く弾けるよね?」とプレッシャーのかかったコンサートは、
細かい事故はありましたが、まあまあやるべきことは果たせたとは思います。
でも、また大きな課題にぶつかった感は、これからしばらくは続くことでしょう。
昨日演奏した、バロックザール。
同じ講習会で知り合った仲間から、一輪の花をいただきました!
ありがとう!!
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